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津城と藤堂高虎公 [f]

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城造りの名人と呼ばれる戦国大名の藤堂高虎公。

その高虎の最後の居城であった津城は明治期の解体や太平洋戦争中の空襲、戦後復興期の開発などで往年の面影はない。(残念)

コンクリート製の隅櫓も史実とは全く違うものなのだそうだ。

閑話休題、現在残っている石垣は堀が埋め立てられてはいるが、石垣自体は昔のままであるはずだ。

この石垣がたいそう低い。それは高虎公の徳川家に刃向かわない、恭順の意思の表れだと聞いたことがあるが果たして本当だろうか?

恭順を示すならば、なぜ、壮大な堀を構えていたのであろうか?

また万一、豊臣家が徳川家に対して軍を起こし、伊賀上野を抜いて東上する際は津城も防衛ラインになったはずである。であれば、あんまり低い石垣ではダメなんではないだろうか?(伊賀上野城の石垣はあんなに高いのだから)

つまり、津城の石垣が低いのは別の理由があるのではないかと思う。

たとえば、壮大な堀があるので建築技術上高い石垣が築けなかったとか。豊臣家の驚異はあるものの概ね平和な時代となり、高い石垣が必要でなくなったので建築コストを抑えるために低くしたとか。


その答えは藤堂高虎公しか知らない。直接聞いてみたいナァ。


津城址の高虎公の銅像はたいへん立派である。

伝説では、藤堂高虎は偉丈夫で身長は相当高かったと聞く。(さすがに2メートル近かったというのは兜の高さとか、話の尾ひれだろうけど。)


馬上の高虎公は何を見ているのだろうか?(方角としては江戸だけど。)
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