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山崎豊子著『ぼんち』その3 [f]

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『ぼんち』には五人のお妾さんが登場する。

大阪では、妾を「てかけ」と呼ぶことを本書で初め知った。目に掛けるのではなくて、手に掛けるというなんとも率直な言い方が大阪らしい。

この五人が、五様であって、彼女らを通して当時の大阪の風俗や習慣を克明に描いている。

妾の他に本妻も登場するから、嫁入りの風習や嫁いでからの嫁姑関係のことも描かれている。

本妻も妾も船場商家の厳しいしきたりに翻弄される。しきたりというと因習な感じだが、長年生き馬の目を抜く商家で培われたしきたりは極めて合理的に考える。

つまりは何事もカネをつかってキレイに片付ける。資本主義もここに極まれりという感じすらする。

たとえば、お妾さんに男の子が生まれれば手切れ金として五万円を渡し、私生児として里子に出される。そういう決まりということで、有無を言わさず従えさせる。女の方も無駄な抵抗と知りつつ少しは歯向かうが、結局は従っている。

しきたりという一定のルールがあり、世界観が定まっているせいか、読んでいて酷いとは思っても、不思議と陰湿とは感じなかった。臆面もなくしきたりを持ち出すからだ。主人公も多少の不満はあっても自分もその世界の住人と割り切っている。

こうしたしきたりを壊すのが先の戦争であり、空襲が船場の町と一緒にそれらも焼き尽くしたのではないかと想像する。その象徴的出来事が主人公の祖母のあり方であろう。

今の船場のことをよく知らないが、戦前の「ぼんち」文化などは復活していないだろう。

思うに、こうした旦那衆のやり方を奉公人や商家以外の人は案外冷ややかに見ていたのではないか。

西洋では市民自らが革命を起こし、貴族を特権階級から引きずり下ろした。日本では明治維新がそれと同じように言われるが、ある種の貴族のような商人たちのような特権階級を破壊したのはアメリカ軍に他ならない。

一般庶民は無意識の中でかつての豪商の復活を許さなかったのではないか、そんなことも本書を読んで思い巡らせた。

閑話休題、本妻も含めれば六人の女性が出てくる本書には一切濡れ場という描写がない。

本書がある種の清々しさを持つのはそのせいである。

それは女性の尊厳を守ったとも取れるし、女と男の閨を描くのは野暮なこという山崎豊子の矜持のようにも取れる。
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