灯台を回ろうか [本のブルース]
今年一等最初にご紹介する本は宮本輝氏の『灯台からの響き』。
年始に読み始め面白くて一気読みした。
久しぶりに(私にとっては)小説らしい小説だった。
主人公は62歳のラーメン屋店主。とある事情で現在は休業中で、その店主を巡って起こる事件を解き明かすストーリー。 事件といっても日常生活の延長ようなことではあるが、当人にとってはたいへん重要なできごとだ。
余談だが、もしこの話が殺人事件であれば、まるで松本清張の『ゼロの焦点』のような謎解き話だ。
話を戻す。少しミステリアスな事件を解く鍵として灯台が出てくる。 各地の灯台を巡る話が紀行文としても秀逸で、今年は灯台を巡ろうかと密かに考えた。 こういう読者は多いだろう。コロナが許せばだが。
『天離り果つる国』 [本のブルース]
今年最後にご紹介させてもらうのがこの本、『天離り果つる国』。
この本も書評での評価が高く、そしてその通りの面白さ。
最近思うのは、近頃の小説と漫画がとても近いということ。
この小説は歴史物だが、昔の司馬遼太郎らとは明らかに世界観が違う。
作者の宮本昌孝氏は先人と異なる視点、書きぶりを探すのにさぞや骨を折ったのではなかろうか?
また、平家の落人伝説ではないが、鄙の地に残る貴人譚の発端はこういう物語なのではないだとうかとも考えた。
閑話休題、小説の舞台は飛騨白川郷。再訪したくなった。
『命の砦』 [本のブルース]
久しぶりにPCからアップします。写真が大きくていいですね。
また、本の話で恐縮ですが、『命の砦』、凄いエンターテインメント作品。息もつかせぬ面白さというのはこういうことを言うんだろうなと思う。(使いふるされた表現だけど。)
本作は、「女性消防士・神谷夏美シリーズ」の第3作だそうですが、私はこの本しか読んでいません。
スリリングで楽しめるけれど危険な作品だと思う。
設定は現代のクリスマスイブ、場所は新宿。そこで巻き起こる大火災に挑む消防士ら。勇敢を通り越しての蛮勇は戦時中の「特攻隊」を彷彿とさせるところがある。日本人はこういうメンタルを持っているのか?
それにしても小説とはいえ、こういう話は許されるべきではないと思うが、皆様はいかが思いますか?(これだけの説明ではわからないと思うので、ご関心のある方はご一読ください。)
閑話休題、このシリーズの第1作は1970年代のパニック映画の大傑作『タワーリング・インフェルノ』をオマージュしたものと作者自身が後書きで書いている。
その『タワーリング・インフェルノ』には次のような意味のセリフがあった。(階数とかはうろ覚え)
「建築家たちは競い合って高いビルを建てたがる。おまえたちは火災が起きた時のことなどこれっぽちも考えたりはしない。今のはしご車の能力では11階まで消すのがやっとなんだ」
この映画の舞台になった高層ビルは100階を超えていた。当時の消化能力を遥かに上回るビルだったということだ。
この『命の砦』の舞台は新宿の地下街。そこには十分なはずの防火設備があったはずであるが、それが脆くも打ち破られていく。
さらには火災時には危険極まりないマグネシウム製のPCやスマホ、ゲーム機がうず高く積まれているという設定。年末商戦ということでそういうことが起きるのであるが、これなどは先の『タワーリング・インフェルノ』のセリフと同じではないか?(商売のためには危険なことを顧みない。というよりも、そんなことを考えることすらしない。)
この本を読んでいると、今の日本ではテロや革命がいともたやすく起こせるのではないかという気持ちになる。それを止めるのが命知らずの消防士や警官らしかないというのであればあまりにも危険ではないか!?
「放火した奴らは、テロリストじゃない。愉快犯でもない。奴らの中にあるのは、純粋な不満、社会への憎悪だ。(中略)今回の放火のリーダーが何かをしたわけじゃないってことだ。」
「何かというのは?」 命令、強要、誘導、示唆、と小池は指を折った。(本書126p.)
「この国では、誰も責任を取らないのが常識になっています。何が悪いんだ、とあの人たちは腹の中で思っているんでしょう」(本書279p.)
本作の背景には、国民の二極化があり、その二極化も上流部がどんどん少なくなって、中流はなくなり、下流部が肥大しているという現実がある。その下流部には組織だって革命やテロを起こすようなパワーや思想はないが、いったん暴走しだすと誰も止めることができない。一方、上流は高い地位や報酬は得るものの、国民を守るとか、いざという時は責任を取るという覚悟のない者が多いという事実が横行している。
果たして、本作はフィクションと言い切れるだろうか?! 現実化しないことを切に祈る次第。
【追記】
今日で11月も終わります。
今月もおつきあいありがとうございました。
師走もよろしくお願いいたします。(拝)
ちょっと期待はずれでした『陽眠る』 [本のブルース]
私が好きな文芸評論家・縄田一男氏の評価が高かったので読みましたが、自分には期待はずれでした。
5点満点で3点くらいでしょうか?
理由は、淡々としていて内容が薄かったからです。
幕末から戊辰の役まで働いた徳川幕府の軍艦「開陽丸」の戦闘シーンがもう少しじっくり描かれていると期待していたのですが、存外それは少ないように思いましたので。
新型コロナはいつか来た道か?『感染症利権』 [本のブルース]
前回から少し間が空いた更新となりご無礼いたしました。
さて、最近読んだ新書『ドキュメント 感染症利権-医療を蝕む闇の構造』は山岡淳一郎氏の力作で、調査力の広さと深さに脱帽いたしました。
もし、政治家やもっと広く国民がこの本に書かれている過去に起きた感染症のことを知っていれば、もっと正しい対応ができたことでしょう。 そうすれば私たちの生活のあり方や社会の様子もずいぶん変わっていたと思います。
なぜ、それができないのか?
過去に起きた出来事は世代が代われば忘れられてしまいます。 喉元過ぎれば熱さ忘れるで、語り継がれることや繰り返し学び直すことも現実には難しいものです。 人々に関心や興味がなければ本なども作られません。この本も今年7月の出版です。
タイトルはなんか難しそうですが、内容はわかりやすく書かれていて興味深く読んだ1冊でした。
さて、私の遺品は何にしようか?! [本のブルース]
書名『遺品博物館』。
まるでホラーのようなタイトルですが、そうではなく、少し毒のある短編集です。
作者の太田忠司氏は星新一ゆかりの賞にかつて入賞された方と聞けば「さもありなん」と納得しました。
さて、本作は、故人の遺品を通して生前の生き方を語るというユニークな設定で、そのストーリーの隠し味が毒のように痺れます。
八つの短編を読み終えたとき、ふと考えました。 私の人生を語るにふさわしい遺品はなんだろうか?私の生き様を切り出してくれるものはなんだろうか、と。
この物語では、それは決して高価なものに限られるわけではなく、また大切にしたものに絞られるわけではありません。 その人のことを話すうえでエピソードを凝縮したものでした。
自分のことがよくわからないので、鬼籍に入った近しい人のことを考えてみましたが、この短編集のような鮮やかな物語と遺品は思い浮かびませんでした。
作者の非凡な才能を痛感いたしました。
八甲田山を再考する [本のブルース]
中学生の頃に新田次郎の名作『八甲田山の死の彷徨』を読み、昨年、それを原作にした映画『八甲田山』を観ました。
今回、『囚われの山』を読み、再び八甲田山の遭難事件について考える機会を得ました。
本作はミステリー仕立てであり、どこまでが史実で、どこからがフィクションなのかよくわかりません。伊東氏の文章力がすばらしすぎて、最後の最後までこれは史実だと読めてしまうのです。
それを作者自身が危惧したのか、「これは私の想像ですよ」と、言わんばかりのどんでん返しに私は少しシラケてしまいました。
しかし、そこまでは文句なく面白く、これも一気読みの1冊でありました。
2年前に八甲田付近を旅行した際に、“雪中行軍”の史跡に立ち寄ってこなかったが今となっては残念至極です。
娯楽としての読書 [本のブルース]
松本清張氏が、「自分の書いた小説を読むことで、その日にあったイヤなことを忘れて明日も頑張ろうと思ってもらえるようなもんじゃなければ小説の価値がない」といった意味のことを言われていたそうです。
昭和の高度成長期は、労働者にとって楽しいことばかりではなく、今よりもパワハラやセクハラなんかも多かったハードな時代です。 社会全体が今よりたくましく、そして若かったから数多のハラスメントをはねのけられたのでしょう。二桁成長が世の中を癒やしてくれたはずです。
とはいえ、健全な憂さ晴らしは必要だったことでしょう。その一つが読書でした。 娯楽が少なかったこともあって、かつての読書は今よりももっともっとエンタメ性が求められたものと推測します。
閑話休題、今更ながら4年前のベストセラーを紹介するのも気がひけるのですがいつものこととお許しください。 グリコ森永事件を題材にした『罪の声』は文句なしに面白くて、ページをめくる手が止まりませんでした。
まさに、昼間のイヤなことも忘れて夢中になって読み切りました。 本作は今秋映画になるそうで、そちらも今から楽しみです。
私は今まで現代の若手作家の作品を読むことが少なかったのですが、これからはもっと読もうかと思います。
全くの余談ながら、若い頃の私はキツネ目の男に似ていると言われたものです。 森永救済の用のお菓子パックを父親が買ってきたことも思い出しました。
果たしてあの犯人(たち)は今どうしているのか?
作者・塩田武士氏の筆力と構想力の素晴らしさに感心し、行間に滲む執念に魅せられた1冊でした。
『老人と海』を読み直す [本のブルース]
何年ぶりかでヘミングウェイの傑作と言われる『老人と海』を読み直しました。
前に読んだ新潮文庫版は紛失したので、新たに光文社古典新訳文庫版を購入いたしました。
今回読み直すきっかけとなったのは、私が定期的に読んでいる某経営者の方のFacebookに推薦的内容が書かれていたからです。
さて、前回も今回も、私にはこの本の内容はあまり響きませんでした。
あらすじは、【ネタバレありになります】、老いた漁師が80日以上不漁続きで困窮しているところ、3日3晩の格闘の末ついに大物カジキを釣り上げることに成功するのだが、帰港途中にカジキはサメの餌食となり最後は骨だけになったカジキと港へ帰り着くというだけの話。
私は釣りもしないし、マリンスポーツもしないので特に揺さぶられるものがないのかもしれません。
老人は漁師としてこの年齢(具体的な歳はわかりませんが)まで生計を立て、過去には大層な町一番の力持ちであったというエピソードも途中で挿入されています。
老いたるとはいえ、過去の経験から大物カジキに怯むことなく、獲物を追い詰め最後は銛で仕留めるというとても老人とは思えない離れ業を見せます。
今までにない大物をサメに全部食べられても老人はパニックになることもなく、稼ぎがなくなったと落ち込み、疲れをいやすために眠り続けることで話は終わります(決して死んでるわけではなく)。
果たしてこの老人にとって海とは何なのか?
漁師は老人にとって仕事であり、海は職場であると言えるかもしれませんが、会社員の職場とは意味合いが違うでしょう。
フレデリック・フォーサイスの短編で『帝王』という作品があります。
『老人と海』をオマージュしたような話で、私にはこちらの方がしっくりきたりします。
『帝王』のあらすじは、【ネタバレありになります】、定年間近な銀行員が休暇で海辺の町に出かけ、ひょんなことから釣り船に乗り、老いた漁師の手ほどきを受けながら「帝王」と呼ばれる大物をビギナーズラックで釣り上げ、最後銀行を辞めて海辺の町に住むことを決意するという話でした。(昔読んだので記憶違いがあるかもしれません。)
この『帝王』が『老人と海』の解説本であり、私のような拙い読み手とヘミングウェイの架け橋のような気がしてなりません。
『老人と海』は、単純な話の中に人間が生きる意味、楽しさ、厳しさ、苦しさを描き、最後に読者の生き方を問うという話のような気がします。
【追記】
『老人と海』には脇役として老人に漁の指導を受け、その縁から老人を慕う少年が登場します。