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「明治維新 文化財に牙」 [日経新聞から]



本日の日経新聞13面の「日曜に考える」に興味深い記事が掲載されていた。

タイトルは「明治維新 文化財に牙」

「明治維新期は旧弊を打破し、文明開化により新しい時代を開くという機運が異常に高まり、行き過ぎた前時代の否定が行われた。代表例が廃仏毀釈、廃城令による寺院、城郭などの旧物(文化財)破壊だった。」


驚くことに、奈良・興福寺の五重塔(現在は国宝)も25円で売却された、とある。現代の貨幣価値に直しても数十万円という価格らしい。これは地域住民の反対で中止になった。つまり、明治政府よりも地元住民の意識の方が健全であったということだと思う。


記事中にある半藤一利さんのコメントによると、「明治新政府がやろうとしたのは、儒教思想による江戸幕府の統治を完璧に壊すこと。そのため、天皇を中心とする神道国教化政策をひそかに考えていた。」


歴史の授業で習ったように、廃仏毀釈のことは知っていたが、まさか文化財までその危機にさらされていたとは、驚きである。


一方、「廃城令」は江戸幕府の権力の象徴である「城」を壊そうという発想は、新政府側の考え方としては「あり」なのでしょう。とはいえ、貴重な建物のほとんどが失われたのは残念なことである。


記事によると、天守閣が創建時のまま残った城は、松本・彦根・姫路・犬山・松江・高知・伊予松山・丸岡・備中松山・弘前・丸亀・宇和島の12城だった。


彦根城は大隈重信が明治天皇に進言したことで壊される運命が一転、残されることになったというのだから、当時の政府高官全員がバランス感覚を失っていたわけではないということである。また天皇陛下も寛大なご判断を下されている。


また、当時の城は旧士族による反乱根拠地になる可能性もあったのだから、残す側にもたいへんな努力があったことと思う。


それにしても残った12城と、それ以外の多くの城との違いはなんだったのだろうか? また、たとえ壊されたとしても、その後の再建等で違いがあるのはどういう理由からなのだろうか?


たとえば、津城は江戸時代に火災があって、天守閣はその後再建されず、幕末-明治初期には既になかったと言われている。そうだとしても築城の名手・藤堂高虎が造った巨大な堀は、いつ、なぜ、なくなったのだろう?


今わずかに残った内堀やセメントで固められている石垣を見ると、ささやかな記憶として、言い訳程度に残されたように見える。逆に、これだけ城跡がないと、当時の人は、一般庶民も含め、早く、江戸時代の記憶を消したかったのではないかと邪推してしまう。その理由は、古くは関ヶ原、近くは幕末の鳥羽伏見の戦いでとった藤堂藩の行動に起因するのではないか、というのは考えすぎであろうか?


話がやや横道に入ってしまった。歴史好きの方は読んでみてください。
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