SSブログ

『光秀の定理』 [本のブルース]





文庫本の帯には評論家諸氏の絶讃評が記載されている。その評とおりたいへん面白い小説であった。

光秀とは明智光秀のこと。その光秀を450ページ程度の紙幅の中で鮮やかに描ききっている。しかも文章が巧い。

閑話休題、歴史小説というのは定番の人物であれば、すでに描き尽くされていると私は思う。もちろん明智光秀もその一人。

そうした定番人物を主人公として新たな小説を書くには、新しい解釈でその人物を表現するか、新しい文章手法で描いたものしか歴史通の読者は満足しない。


そして、本作は後者、すなわち新しい文章手法で世に問うた歴史小説だと思う。


たいへん失礼ながら、作者・垣根涼介氏の明智光秀に対する評価は司馬史観に基づいている。それは悪いことではない。むしろ、奇をてらった設定や矮小化するとらまえ方よりずっといい。

明智光秀がなぜ、本能寺の変を起こしたのか、その理由を誰かの陰謀に求める説が最近いくつかでてきているが、垣根氏は光秀が人に操られる様な小さな人間ではないと評価している。

ここからはネタバレになるから書かないが、司馬遼太郎が『国盗り物語』において信長と光秀は斎藤道三が見込んだ弟子であり、ともに同じ才に恵まれた似た者同士であると捉えていた。本作も全く同じように信長と光秀を描いている。

ただし本作は、辛口文芸評論家縄田一男氏をして「歴史小説史に名をとどめることになるかもしれぬ」言わしめたように、描き方がこれまでの歴史小説と全く違うのである。もちろん司馬遼太郎とも異なる。

しかも心憎いことに、あまたある合戦の中から本作で克明に書かれたのは六角氏と戦う「長光寺攻め」のみである。この戦さは司馬氏の『国盗り物語』ではほんの数行しか触れられていないと記憶する。心憎いとはそういうことなのだ。


しかも決して多くない紙幅の前半をその伏線のために使っている。作者の用意周到な構成に舌を巻く。


さらにエンディングは奇しくも司馬氏の『国盗り物語』と同じ細川藤孝を登場させている。奇しくもと書いたが、それも垣根涼介は百も承知であったと思う。

本作、たいへん面白く、面白いだけではなくて、日本人とは何なのかを考えさせる壮大さもある。それも司馬史観が追求しているテーマであった。つまり、本作は司馬遼太郎へのオマージュなのだと私は思う。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。