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『金沢あかり坂』 [金沢エレジーもしくはプレイバック]




私は、金沢に行って時間があると必ず案内する場所があります。


それは市内尾張町の久保市乙剣宮の境内脇から主計町に抜ける階段道です。この小路には「くらがり坂」という名前が付いていることは最近知りました。


この坂道がとても風情があって、金沢の本質を凝縮した場所のように私には思えてなりません。


この近くにもう一つ坂道があることを五木寛之氏の本で知りました。「あかり坂」と、五木さんが命名されたようです。残念ながら、私はその坂道を知りません。今度、金沢に行った際にはぜひ訪ねてみたい場所です。


閑話休題、『金沢あかり坂』は短編集で、掲題の作品がトップを飾っています。他の三作品もよかったですが、本作はなんともいえない切なさの内に希望があって佳い話でした。


来週あたり、ぶらりと金沢に行ってこようか!?
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『五木寛之の金沢さんぽ』 [金沢エレジーもしくはプレイバック]




今年は北陸新幹線が開通し、金沢はこのゴールデンウィークも大賑わいのことだろう。

私は大学生活を金沢で暮らした関係で、金沢を勝手に第二の故郷と決めている。50年を超える人生のわずか4年にしかすぎないのに、私の心の中に占める金沢の町のインパクトはひょっとすると三重よりも大きいかもしれない。

閑話休題、五木寛之氏は私が大好きな作家さんである。その理由は五木さんが書く金沢物は、小説もエッセイも実にしっくりくるからだ。(もちろん、他の作品もいい。)

五木さんも金沢に住まれたご経験がある。よそ者として金沢に対する視点が的確で、それを完璧に文章で表現される。

「私が言いたいことはこういうことなんだ。さすが!五木さんよく書いてくれた。」

五木さんの金沢物を読むと、いつもそう思う。

連休中に掲題のエッセイを読み終えた。今日あたり金沢まで行こうかしらと思ったが、やめておいた。なんとなく家人に言いだすのが照れ臭かったからである。(家人は同じところに何度も行くのが嫌いだ。)

写真を見ていただきたい。向かって右側が裏表紙で、タイトルが小さめの文字でしっとりと記されている。いかにも金沢らしいと感じる。やっぱり、五木さんはよくわかってみえるなぁ。
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北陸新幹線について考える [金沢エレジーもしくはプレイバック]





北陸にいよいよ念願の新幹線が開通しました。おそらく最初の構想から40~50年経っているのだと思います。まさに悲願の計画が実現したというところでしょう。(残念ながら福井までは行きませんでしたが・・・。)

金沢で暮らした経験がある私は、金沢から東京がいかに遠いかは身にしみています。北陸新幹線ができるまでは、飛行機で行くのが一番早く(費用も高く)、次いで、新潟か、米原かを経由して新幹線に乗り換えるコースが早かったように記憶します。(長野まで新幹線ができたので、そちらを回る方法もあったのかな?)

私が就職活動をしていた30年近く前は、午前中に東京で面接を受ける際、夜行に乗って新潟まで行き、そこから新幹線に乗った記憶があります。


今回の北陸新幹線開通で、金沢-東京間は2時間40分で結ばれたとか。今までにない格段の進歩です。この時間であれば、日帰りもできますね。


でも、私は心配してしまいます。交通の利便性が高まると、なぜか、小さい町から大きな町へ、地方から都会へ人の流れが加速度的に強まるのが通常のパターンだからです。つまり、金沢から東京へ人が流出するのではないかと。人が移ると、情報や活気、その他町の魅力までもがもってかれるような気がします。


これは、私の経験上で申しあげているだけで、客観的なデータがあるわけではありません。(いつか、それが証明できるようにデータ分析ができたらいいなぁと思っています。能力不足を恥ずかしく思います。)


閑話休題、金沢は今も魅力のある町ですが、それでも私が住んでいた頃に比べると魅力は衰えたように思います。それは、懐古的に言っているのではなく、金沢の町の良さであった、今でいう「コンパクトシティ」という都市機能がなくなったこと。町がスプロール化してしまい、中心部の魅力が落ちたからです。

以前は、町の中心部に県庁と市役所が隣接してあり、そこを中心に警察署や学校の他、デパート、商店街などが集中し、活気がありました。都市機能の集積が高いので、町中に住む人も多かったと思います。ただし、いい面ばかりではなく、交通渋滞の問題は深刻でした。


その問題を解決することもあって、県庁を郊外に移したように聞いています。また警察や学校も別の場所に移転しました。郊外にショッピングセンターもできたようです。


その結果、市街地の活気は昔ほどではなくなったように見えます。一番残念なのは、町家が少なくなり、駐車場になってしまったことです。


30年くらいの前の観光客へのアンケート結果では、金沢の一番の魅力は「裏通りに歴史を感じる点」でした。兼六園や武家屋敷をおさえて1位になる「裏通りの魅力」とは、金沢の伝統的な町家が息づいていたからです。卯辰山という市の高台に登ると、美しい黒い瓦の屋根が見事に連なって、それはそれは素晴らしい光景でした。


こうしてなくなったものもありますが、良くなったところもたくさんあります。


金沢城は、明治以降は軍隊が置かれ、戦後も城内に大学があったため、石垣の中に入ることはできませんでした。たとえ中に入っても、大学のコンクリートの校舎があるだけなので、なんの魅力もありませんでした。それが、大学移転後は史実に忠実に城跡を復元しています。前より何倍もよくなっています。


21世紀美術館は付属小学校があったところだと思います。この美術館の説明はいらないでしょう。今や金沢観光の目玉の一つとなりました。


東の茶屋街は、昔もしっとりしたいい佇まいでしたが、今は更に整備されて、美しさに磨きがかかっています。武家屋敷跡もそうです。


新幹線が通るので、金沢駅も立派に改築されました。以前の駅は、県都の玄関というには少しお粗末な感じがありました。


私の印象では、金沢市内の観光スポットは景観整備がよくなされて、観光客の満足度は高いのではないかと推測します。一方、町の人の暮らしという意味では金沢本来の良さ、らしさが薄れたような気がしてなりません。それは何も町の人たちの生活に不便を強いたものではなく、都市住民の生活のよさがあったように思います。


30年前、すでに日本の地方都市はスプロール化し、郊外型のSCが立ち並び始めていました。そんな地方都市と比べると、金沢は「一周遅れ」のトップランナーの様相を呈していました。それがいつのまにか、他の地方都市の真似をして、どこにでもある地方の町に堕りつつあるのが今の金沢ではないかと私は見ています。


北陸新幹線が悪いわけではありませんが、金沢の人たちが「心して」かからないと、金沢の魅力が東京人に収奪されてしまって、抜け殻のような町になるのではないかと、いらぬ心配をしてしまいます。できれば、杞憂でありますように!


長文かつジャスト・アイデア・ベースの文章を最後までお読みいただきありがとうございます(拝)。

写真は、北陸新幹線のHPからお借りしました。
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出張の帰りに、金沢にて [金沢エレジーもしくはプレイバック]

台風が近づいてきて、風雨が一段とひどくなってきている。皆さまはご無事でしょうか?

閑話休題、先日、出張帰りに寄った金沢市のことを少し書く。

今回はJRで行った。いつも行くとすると車なので金沢駅に行くのは30年ぶりくらい。あまりの変わりように驚いた。昔は典型的な国鉄(当時)の駅で、つまりは味気ない駅だった。駅前もごじゃごじゃとしていて観光都市の玄関口としてはたいへん評判が悪かった。その不評をフッ飛ばすような洗練された金沢駅になっていた。





案の定と言うべきか、わたしはそのカッコいい駅舎を見て淋しさを覚えるのだった。まるで高校時代仲良かった友人が東京の大学に行き、服装も言葉も東京チックになって帰省したときのような淋しさである。


同行した人が金沢は兼六園しか行ったことがないというので「忍者寺」に案内した。忍者寺というのは俗称で、正式名称は妙立寺という。ご存じの方もみえると思うが、忍者がいた寺ではなく、いろんな仕掛け・からくりがある寺なので、随分前にマスコミが(たしか朝日新聞だったと思うが)名付けた“あだ名”なのである。


ここも30年ぶりくらいの参拝である。何度か見学したことがあるのだが、ほとんど覚えていない。昔から予約制だったが、私が知る時代はもう少し融通がきいたように記憶する。今は厳格だった。





それにしてもこのお寺のからくりは面白い。金沢に行かれたら見学されることをぜひお勧めする。

お昼を食べようと、忍者寺近くにあった学生に安くしてくれるお寿司屋さんを探したが見当たらなかった。記憶違いだったろうか?代わりに写真のような家を発見した。この家の特筆すべきところは瓦ではなくて石葺きだという点である。






金沢は黒い色の瓦をのせた町家が有名だが、黒瓦以前は石葺きだったという話を聞いたことがある。伝統的な黒瓦の町家も少なくなっている今、“黒瓦以前”の石葺きが残っているのは奇跡としか言いようがない。ぜひ、保全してもらいたいものである。


上述の寿司屋がみつからなかったので、金沢市民の台所で、観光客の人気スポットにもなっている近江町市場に行った。タクシーの運転手さんが教えてくれたお店はすでにお昼の2時だというのに待っているお客さんが店の外まで並んでいたので、あきらめて旧知の「近江町食堂」へ行った。ここも人気店だが、すでにこの時間は空いていた。近江町食堂定食を食べる。ここの定食も昔は学生が食べれるものがあったが、今はどういう理由かわからないが、やや高めの値段設定となっている。新鮮な刺身とごはんがおいしいからから上代1,830円でも不満はない。ごちそうさまでした。






おなかも一杯になったので、21世紀美術館を少し見学して、金沢城に行った。やはり石川門は金沢観光のシンボルだと思う。加賀百万石の矜持が今もこの街にはしっかり息づいている。それは時には誤解されたりするかもしれないが、金沢の文化・伝統を守る礎になっていると思う。その象徴が石川門である。この門をくぐると、再建された建物が石垣内にいくつかある。これはこれでたいへん素晴らしい。節のない太い木材など一流の材を贅沢に使い、江戸時代のままに再現した現代の“匠”の技に敬服する。これらの建物が再現されるまで加賀藩の気概を支える拠り所は石川門だったのではないかと私は考える。石川門は偉大なのだ!





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加賀の地酒 [金沢エレジーもしくはプレイバック]





もう30余年前になる。わたしが金沢で生活しはじめて気づいたのが、三重県で慣れ親しんだブランドが金沢では目につかないということだった。

たとえば、新聞。中日新聞が少ないのは仕方にないとしても、三大紙といわれた「朝日」「読売」「毎日」をとっている家庭は少ないようだった。たしか、朝日などは夕刊がなくて、朝刊に夕刊のコラムなども掲載されていたような気がする。

かわって一般家庭でメジャーなのは「北國新聞」、次いで「北陸中日新聞」だった。正確なシェアは知らない。あくまでわたしの感覚である。


お酒もそうで、さすがにビールや洋酒はこちらと同じだが、日本酒は地元メーカーが圧倒的に強かった。松竹梅、月桂冠、大関、白鶴などはコマーシャルすら流れていなかったように思う。


当時、地元の三大メーカーといわれたのが、福正宗、萬歳楽、日栄だった。

これが1983年の話である。

その年だったか、翌年だったかに、ビッグコミックスピリッツで、『美味しんぼ』の連載が始まる。比較的初期の段階で、日本酒が取り上げられ、石川県の「菊姫」が紹介された。わたしたちはそんな銘酒が石川にあるのかと驚き、それ以後、「天狗舞」、「手取川」、「宗玄」、以上は石川県のお酒。富山県の「立山」、「銀盤」などの存在を知り、味もそれほどわからないのに純米酒を尊ぶようになった。


以下はわたしの全く勝手な感想なのですが、なまじ近代化していた「福正宗」(社名は、㈱福光屋)はそうした純米酒・大吟醸ブームにやや出遅れ感があったように見受けられた。


当社は創業1625年とむちゃくちゃ古い伝統の酒蔵である。味処加賀の地で脈々と酒造りを行ってきたのであるからその味は折り紙つきと考えてよかろう。その福正宗が古き佳き時代の酒造りを取り戻すにはやや大きくなりすぎていたのではないかと思った。


閑話休題、わたしは大学4年のとき、福光屋の社長様にヒアリングをしたことがある。もう内容は忘れてしまったが、わたしの態度は随分と生意気で失礼だったと思う。一つだけ覚えているのは、わたしが「甘エビを美味しいと思ったことはない」と言ったところ、気の毒そうな目でわたしを見て「君は可哀想な人だね」と言われたことだ。

わたしは金沢に4年住んだが、本物の甘エビを食べたことがなかったのである。今でいうところのB級グルメを愛し、ブルジョアが食べるような食材を、食べたこともないのに貶すようなところがあった。そんな狭い了見を福光屋の社長は一瞬で見抜き、「可哀想な人」と言ったのであろう、と思う。


先日、近所のスーパーで写真の品をみつけた。福光屋の純米大吟醸「加賀纏」。懐かしくて買ってみて飲んだ。


美味しかった。当社のHPをみると、いろんなユニークな取組みをされている。⇒http://www.fukumitsuya.co.jp/sake/


もし、機会あればこの30年間の当社の歩みを調べてみたい。
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「茶房一笑」のこと② [金沢エレジーもしくはプレイバック]





昨日の「茶房一笑」のつづきです。

写真は「茶房一笑」の二階です。 二階部分は当初の間取りを残し、修復にとどめてみえます。

焼物が展示されてました(注・昨年秋のこと)。









それに対して、一階部分は、三部屋の和室と水回りを解体し、喫茶スペースに造り変えたとききました。


もちろん窓の「加賀格子」は健在で、窓際の席からは外の町並みが見えます。




喫茶では棒茶や加賀のお菓子が楽しめます。







閑話休題、「茶房一笑」には、思わぬ三重県とのつながりがあります。


そもそも「一笑」の名前の由来は、江戸時代・元禄期に加賀藩で生を受けた俳人「小杉一笑」からきています。

一笑は松尾芭蕉からも注目され、“蕉門”に属しました。ただ、三十六歳の若さでこの世を去っています。

一笑の死の翌年、芭蕉は『奥の細道』の途次、金沢に立ち寄り次の句を読んだと、「茶房一笑」に説明書きがありました。

若すぎる弟子の死に対する芭蕉さんの悲しみが伝わってくるようではありませんか。

「塚も動け わが泣く声は 秋の風」
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「茶房一笑」のこと [金沢エレジーもしくはプレイバック]



金沢の東山に「茶房一笑」はあります。

加賀棒茶の老舗「丸八製茶」さんが、古い金沢の町家を改装して“茶房”に仕立て直したのはもう今から18年も前です。

わたしが金沢に行くのはごくたまにですが、その折にはなるべく立ち寄らせていただいております。





東山というのは、昔の花街で、ここ数年観光地としてずいぶん整備されました。(上の写真は昨年11月の平日朝9時ごろですので、比較的落ち着いた様子です。)

もし、30年くらい前にタイムスリップできるなら、最近の東山しか知らない方は驚かれるくらい、当時の東山界隈は静かでした。

いわば、“大人の隠れ家的”観光地でした。今ではたいそう賑わっている洋食屋「自由軒」さんあたりも、昔は近所の常連さんばかりで、観光客の方はあまり立ち寄ってなかったように思います。





閑話休題、「茶房一笑」のこと。上の写真は「茶房一笑」の二階から東山の町並みをみたところです。


ここ20年くらいのことでしょうか、日本の古き良き町並みや家々を守る動きがようやく認められてきて、それまでは済し崩し的に破壊されてきた町並みや古い家屋が、保全・再生されるようになってきました。これはとても喜ばしいことだとわたしは思います。


ただし、そうした保全や再生は、現代の便利な生活に抗う形にどうしてもなってしまうため、所有者には経済的負担は言うに及ばず、利便性など様々な不便や我慢を強いることとなっています。

そのため、どうしてもある程度ボリューム感があって、観光資源となるようなところでないと残らないのも事実かと思います。

そうした中、「茶房一笑」は見事に現代に蘇えった好例だとわたしは思います。


先日、本棚を整理していると、先の丸八製茶さんが発行されている小冊子『動橋』(第五号・1994年秋号)をみつけました。偶然にもその号は「茶房一笑」特集でした。


その中の一文を引用させていただき本日は終わりにしたいと思います。たぶん書かれたのは建築家の松島健氏です。

「どんなに美しい街並も、そこに生き生きとした現代的な生活が営まれていなければ、それは書割にすぎない。歴史と暮らす時の最大の課題がそのあたりにある。歴史のフラスコの中に沈殿した時間を撹拌する必要があるのだ。」
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第7ギョーザ、再び [金沢エレジーもしくはプレイバック]




1泊2日で金沢と能登に行ったので、2日目の今日、「第7ギョーザ」を食べてきました。


以前にも書きましたが、わたしの金沢における“ソウルフーズ”の1つです。


写真は「ホワイト餃子」15個です。これにライスを頼んで大満足でした!


今回、初めて食べた家族にも大好評でした!!


閑話休題、第7ギョーザは今日も大盛況でした。


この店は、ホワイト餃子をメインとして、焼き餃子や水餃子など餃子3~4種のみのメニュー。つまり、餃子専門店です。その場ですぐ食べる来店客だけでなく、持ち帰りの方もたくさんみえて、とても忙しい状況でした。


わたしが学生の頃も大繁盛してましたが、今はさらに客層が広がっている感じがします。


その理由としては、


①クール宅急便とインターネットの発明と普及により遠隔地の方でもこの商品を楽しめるようになったこと(必ずしも来店しなくてもよくなった)。 ②わたしの例にもあるように、かつてファンだった人間が、金沢を訪れた際、家族や友人・知人に紹介するようになった。(世代層が厚くなった。)


もちろん言うまでもなく、商品が美味しくなくては話になりません。


言い換えると、商品が良ければ、どんどん広げることができる時代になったのだと感じました。


小売業さんに厳しさと楽しさが表裏一体となっている時代です。やりがいがあるといえばそうだし、厳しい時代となった言われればそうです。


職業人として、弱音を吐かず、自分の決めた目標に邁進したいと考えます。
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男の真剣勝負「倫敦屋」 [金沢エレジーもしくはプレイバック]



香林坊の東横インにチェックイン(駐車場がややこしく、手間どりました。初めて宿泊する方は事前にホテルの方からよく訊いておいた方がいいと思います)し、早速、金沢の繁華街・片町に向かいました。


平日のせいもあると思いますが、久しぶりの片町は街の活気が薄れたように思いました。


驚き1:片町スクランブル交差点のミスドがセブンイレブンになってました。金沢の遊び人(だった)にとって夜明けまで営業していたミスドは思い出多い場所でした。


驚き2:黒服の客引きが多い。昔はこのテの客引きは特定エリアに限られたものでしたが・・・。人通りが少ないせいもあってちょっと一人で歩くのが怖かったですね。


こうした変化は町が郊外に拡散したことと、長引く不景気の両方の相乗効果の気がします。


閑話休題。片町の名物酒場「倫敦屋」について書きたいと思います。


写真はうまく撮れてなくてすみません。


きれいな写真と詳しい店舗案内はこちらをご覧ください⇒http://www.londonya-bar.com/

このお店は昔から有名で、学生のわたしにとっては敷居の高い店でした。


ですから先ほどの「第7ギョーザ」の店のように足繁く通ったわけでなく、大学4年間で行った記憶はわずかに2回です。


実際はもう数回行ったようにも思います。


その時から場所は同じですが、店舗は建て替えられています。中々入りづらい店構えはわたしにとって今も敷居が高いです。


昔、何かのエッセイで、酒場というのは「男の真剣勝負」の場所である、というようなことが書いてありました。


倫敦屋は、まさしくそんな場所です、わたしにとっては。


チェーン系の居酒屋が全盛の今の時代、男の真剣勝負の場などと言うのは恥ずかしいというか、時代錯誤かもしれませんが・・・。



閑話休題。今回行って初めて倫敦屋のマスターにお会いしました。


以前、それこそ4半世紀ほど前に行った際、「うちのマスターが載っているから」と言われて山口瞳さんの『温泉へ行こう』をお店の方から貰いました。



なるほど、読むと、「倫敦屋」としてマスターが出てきます。

マスターは山口氏の熱狂的ファンで、金沢の湯涌温泉へ氏が来た際に案内役を買って出たそうです。




わかりづらい写真で恐縮ですが、なんと“三助”までされてます。


マスターは今年、65歳だそうで、ということは当時30代であの素晴らしい店を切り盛りしていたのかと感心いたしました。


この夜はまずギネスビールをいただきました。空輸されてきたギネスは鮮度が他の店と違います。


その後、スコッチの原酒をいただきました。香りも佳く、たいへんおいしかったです。


惜しいかな、マスターからそのお酒の蘊蓄を聞きもらしました。ちょうどお店に団体が入って来て忙しくなったためです。それを潮に少し酔ってきたわたしは店を後にしました。


マスターは最近、歴史小説を出版されていました。





『人情 安宅の関』  辛口な評論で有名な縄田一男氏からも高い評価を受けた作品です。


帰りにレジで購入させていただきました。


その日のお勘定。ビール2杯とつまみ1品、付きだしのナッツ、そして原酒1杯にしては少々お高く、それほど高価な原酒だったのか、それともふっかけられたのかは今もって皆目不明です。


やはり酒場は“男の真剣勝負の場”であると妙に納得した次第。
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銭湯ライフ [金沢エレジーもしくはプレイバック]





その日泊まる香林坊のホテルへ行く前に市内の銭湯へ立ち寄りました。

金沢は今も銭湯の多い町です。

今までも銭湯についてこのブログで何度か書きました。その元は学生時代の銭湯ライフにあります。

自宅にいた頃は家にお風呂がありましたから銭湯に行った経験はそれまでほとんどありませんでした。

今の学生さんからは信じられないでしょうが、大学の4年間風呂なしの下宿生活をしたわたしは銭湯の魅力にはまった一人です。


写真の大和温泉は、わたしが大学1・2年の2年間通った銭湯です。(ちなみに写真は翌日の昼間に撮影しました。)


ここは看板に偽りなく「天然温泉」で、サウナも付いている贅沢な銭湯です。それでいて料金は「銭湯価格」。当時は210円くらいだったでしょうか。現在は420円でした。



昔と内装は少し変わってましたが、基本的には当時とほぼ同じでした。


ここのお湯は茶色で、錆びたような独特のにおいが少しあります。


入った時間のせいか、お客さんは少なかった。脱衣場が狭く感じられるのは、記憶の中で勝手に想像を膨らませたせいのように思います。


湯船に身を沈め、18~19歳のころ何を考えていたか思いだそうとしましたが、思い出せませんでした。


少なくとも30年近く過ぎてから、同じ湯につかりにきていることを想像していなかったことはたしかです(苦笑face04)。


自分が父親と同じ年齢になった頃、何をしているかなんて考えもしませんでした。


それくらい遠い将来のことを考える間もなく、毎日があわただしく、ある種の狂気に満ちて苦しくも輝きながら過ぎていたような気がします。
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